はじめに
『Being on Earth』第2章「個人的体験としての感覚知覚」(ゲオルク・マイヤー著)という興味深い論文を読んで、私たちの「見る」という行為について考えさせられることがたくさんありました。この内容を皆さんとシェアしたいと思います。
原本の翻訳とこの記事の作成にあたってはAI(Claude4)を利用しています。ハルシネーションがあり得ますので、その点ご了承いただいた上でご覧ください。
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朝の散歩で、ふと自分の影を見たことはありませんか?太陽を背にして立つと、足元から長く伸びる影が見えます。そして、もし露が降りた芝生の上などで条件が整っていれば、影の頭の部分に薄い光の輪—まるで聖人の後光のようなものが見えることがあります。
この現象について、マイヤー氏の論文では驚くべき事実を指摘しています。この後光⁹は、他の人の影を見ても同じようには見えないというのです。あなたの目には、自分の影の頭だけに後光が見える。友人に「あなたの影の頭に光の輪が見える」と言っても、きっと相手は「え?どこに?」と首をかしげるでしょう。しかし、その友人も自分の影を見れば、やはり自分の頭の影だけに後光を見つけるはずです。
この小さな観察から、18世紀の哲学者ジョージ・バークリーの洞察へとつながっていく論文の展開は、たいへん興味深いものでした。バークリーは「視覚のもの」は「触覚のもの」と共通の基準で測ることができない¹と主張し、私たちは二つの異なる世界に住んでいると考えました。
影が明かす二つの世界
論文では、この後光現象を通して、私たちが体験している世界の複雑さが説明されています。目を閉じてみると、後光はもちろん、影も、眩しい太陽の光も、すべて消え去ります。代わりに、足の裏が感じる地面の感触、頬に当たる風、草の露の冷たい湿り気といった、身体で直接感じる世界が前面に出てきます。
目を開けると、再び光と色の世界が戻ってきます。マイヤー氏が指摘するのは、目を閉じているときに感じていた露の湿り気と、目を開けて見える後光は、同じ現象の異なる側面でありながら、全く異なる性質を持っている、ということです。
湿り気は指で触れることができ、体温で感じることができる「触れるもの」です。一方、後光は色と光でできた「見えるもの」で、どんなに手を伸ばしても触ることはできません。
歩き回ってみると、さらに興味深いことがわかります。影はいつも私たちについてきます。当然のことですが、歩いているときの風景の変化を注意深く観察してみると、近くにある物は素早く通り過ぎていくのに、遠くの山や建物はまるで私たちと一緒に移動しているように見えます。
そして不思議なことに、自分の影も、この「遠くのもの」と同じような振る舞いをするのだそうです。影は足元にあるはずなのに、視覚的には遠い背景と同じような性質を示すのです。
自分の影は常に太陽の真反対の方向にあります。どんなに動き回っても、自分の影の頭は、自分の目から見て太陽のちょうど正反対の位置にあります。だから後光が見えるのは、その方向が太陽光の反射や散乱が最も美しく見える角度だからだということです。
でも、影は地面にあるはずなのに、なぜ「遠くのもの」のように振る舞うのでしょうか?なぜ自分の影だけに後光が見えるのでしょうか?
「距離が見える」という根深い思い込み
私たちは普通、目で物の距離がわかると思っています。近くにあるコップ、少し離れたテーブル、窓の向こうの木々。これらの距離を「見て」いると感じています。この感覚はあまりにも自然で、疑う余地もないように思えます。
しかし、論文で紹介されているバークリーの洞察は、この当たり前に思える前提に鋭い疑問を投げかけます。当時の科学者たちは、光が物体から目に向かって直線的に進み、その直線の長さが距離を決めると考えていました。ニュートンが提案したこの理論は、とても論理的で説得力があるように見えました。
でも、バークリーは根本的な問題を指摘したのです。本当に距離は「見える」のでしょうか?
論文では、光線の見えなさを説明するために、具体的な例が挙げられています。柵の支柱を一直線に並べる作業を想像してみてください。既に立っている何本かの支柱があり、その延長線上に新しい支柱を正確に立てたい場合、私たちはどうするでしょうか?
一つの方法は、既存の支柱の列の端に立って、その列を見通すことです。正確に一直線に並んでいれば、手前の支柱の陰に後ろの支柱たちが隠れて見えるはずです。つまり、複数の支柱があるにも関わらず、一直線上にある限り、私たちの目には手前の一本しか見えなくなります。
バークリーが指摘したのは、このとき私たちは「直線」を見ているわけではないということです。複数の支柱で構成されているはずの「線」は、見る人にとっては一つの点(手前の支柱)に縮約されてしまいます。張られた糸の場合も同じで、糸の端から糸の延長方向を見ようとすると、糸の「線」としての広がりは見えず、ほとんど点のように見えます。
つまり、「光線」というものが仮に存在したとしても、それを「線として」観察することは原理的に不可能だというのがバークリーの論点です。
これが重要なヒントだとマイヤー氏は説明しています。もし光が物体から目に向かって直線的に進んでいるなら、その「光の線」を私たちは見ることができるはずです。線の長さも測れるはずです。でも実際には、その線を横から見ることはできません。線の長さも見えません。
バークリーの気づきは、もし光線の長さが見えないなら、その長さで決まるはずの「距離」も、実は直接には見えていないのではないか、ということでした。バークリーは「想定される視線の長さは目に見える量ではない。したがって見える世界の目からの距離は、私たちが視覚において直接知覚するものの一部ではない」²と述べています。
私たちが「距離を見ている」と思っているのは、実は別の何かなのかもしれません。
月が教えてくれる視覚の本質
論文では、バークリーが月を例にして、この問題を説明したエピソードが紹介されています。夜空の月を見上げて、「あの月は地球から38万キロメートル離れている」と言うとき、私たちは何について語っているのでしょうか?
見えている月は、直径約0.5度¹⁰の丸い光る円盤です。もし実際に宇宙船で月に向かって飛んでいったとしたら、この光る円盤はどうなるでしょうか?近づくにつれて、月の姿は変化し続けます。そして38万キロメートル進んだときには、もはや小さな光る円盤は見えなくなっているでしょう。その代わりに、巨大な岩だらけの世界が目の前に広がっているはずです。
バークリーはこの点について、印象的な文章を残しています。「たとえば、月を見て、それが私から地球の半径の50倍か60倍離れていると言うとしよう[60倍が正確]。どの月について話しているのか見てみよう。それが見える月、あるいは見える月に似た何か、あるいは私が見るもの、つまり直径約30視点[0.5度]の丸い発光する平面であるはずがないことは明らかです。なぜなら、もし私が立っている場所から月に向かって直接運ばれるとすれば、私が進むにつれて対象が変化することは明らかであり、地球の半径の50倍か60倍進んだときには、私は小さく丸い発光する平らな[面]に近づくどころか、それに似た何も知覚しないでしょう。この対象はずっと前に消失しており、もしそれを取り戻したいなら、私が出発した地球に戻らなければなりません」³
つまり、地球から見える月と、宇宙空間にある月という物体は、根本的に異なるものなのです。見える月は、地球上に立っているときにだけ体験できる、色と光でできた像なのです。
この洞察は重要だと論文では指摘されています。私たちが「見ている」と思っている世界は、実は触れることのできる物体の世界とは別の、独自の性質を持った世界なのかもしれません。
立体視の精巧な仕組み
では、私たちはどうやって立体的な世界を感じているのでしょうか?論文では、いくつかの巧妙な仕組みが詳しく説明されています。
手に鍵束を持って、腕を伸ばしたり縮めたりする実験が紹介されています。まず片目を閉じて行い、次に両目を開けて行ってみると、違いがよくわかります。
片目で見ると、鍵束は距離によって大きさが変わって見えます。遠ざけると小さく、近づけると大きく見える。これは遠近法の効果です。
でも両目で見ると、この大きさの変化があまり目立たなくなります。代わりに、鍵束が「しっかりとした立体的なもの」として感じられるはずです。まるで鍵束の「本当の大きさ」を直接見ているような感覚です。
これが立体視⁵の効果です。左右の目が約6センチメートル離れた位置から少し違った角度で見た映像を、脳が巧妙に合成することで立体感を作り出しているのです。
論文では、立体視がどのように働くかについて、さらに詳しい観察が紹介されています。人差し指を顔の前に立てて、遠くの人を見てみると、指が二重に見えるはずです。今度は指に注目すると、遠くの人が二重に見えます。私たちは一度に一つの距離にしか焦点を合わせることができないのです。
片目を閉じると、この二重像はすべて消えてしまいます。立体視は、この二重像を適切に組み合わせることで成り立っているのです。
特に興味深いのは、針金と洗濯バサミの実験です。まっすぐな針金を垂直に張ってもらい、そこに洗濯バサミを取り付けるのは簡単です。立体視がしっかりと働いて、針金の位置を正確に感じ取ることができるからです。
でも、同じ針金を水平に張ってもらうと、途端に困難になります。針金の位置がはっきりしなくなり、洗濯バサミを取り付けるのに苦労するはずです。
この理由について、論文では立体視が左右の目が見る映像の水平方向の「ずれ」を利用していることが説明されています。垂直なものは左右にずれて見えるので立体視が効きますが、水平なものは主に上下にずれるだけで、立体視が働きにくいのです。
水平な針金の前に立つと、まるで立体視という「追加の感覚」が突然盲目になったような感覚を味わいます。これは、立体視が私たちに「外在性」⁴—物が身体の外にあるという感覚を与えてくれていることを示しているそうです。
運動と遠近法が作る空間感覚
立体視以外にも、私たちが空間を感じる仕組みについて、論文では詳しく説明されています。
歩いているとき、舗装された歩道の石を見下ろしていると、足が次々と新しい石を踏んでいくのが見えます。前方に見えていたものが近づいてきて、やがて通り過ぎて後ろに消えていきます。
右や左の景色を見ていると、物がさまざまな速度で通り過ぎていくのがわかります。近くのものほど速く過ぎ去り、遠くのものほどゆっくりと移動するように見えます。論文では、これを「時間の中で起きる立体視のような効果」と表現しています。
電車の窓から丘陵地帯を見ているときも同じです。近くの木や建物は素早く流れ去りますが、遠い山々は私たちと一緒に移動しているように見えます。この体験を通して、私たちは風景の空間構造を感じ取っているのです。
遠近法も重要な手がかりです。真っ直ぐな並木道を見下ろすと、同じ高さの木々の列が遠くで一点に収束していく様子が見えます。近くでは木の幹の樹皮や葉の細部まで見えますが、遠くでは木全体が小さな点のように見えます。
でも、これらの効果も条件によって大きく変わります。雲に覆われた日と晴れた日では、大気のかすみ方が違って見えます。太陽の方向を見るときと、太陽を背にして見るときでは、物の色や距離感が全く違って感じられます。太陽を背にしているときは、すべてがくっきりと見えて、まるで距離の目盛りを失ったような感覚になることもあります。
つまり、私たちが「距離を見ている」と思っているのは、実はこれらの様々な手がかりを組み合わせた結果なのです。純粋な視覚そのものには、本来距離の情報は含まれていないのかもしれません。
純粋な「見ること」を取り戻す
こうした観察を重ねると、バークリーの主張が見えてきます。私たちが「立体的な世界を見ている」と思っているのは、実は純粋な視覚に、運動の感覚や立体視、記憶、推論などが組み合わさった結果なのです。
では、純粋な視覚とはどのようなものでしょうか?
論文では、夜空の星の例が挙げられています。星空には、ほとんど距離感がありません。どの星が近くて、どの星が遠いのか、見ただけではわかりません。星座の絵のように、天球という大きな平面に光の点が散りばめられているように見えるはずです。
これが、バークリーの言う純粋な「視覚の世界」に最も近いものです。色と光と明暗だけで構成された、本来は二次元的な世界なのです。
歩いているときに急に立ち止まってみると、一瞬、風景から立体感が抜けるような感覚を味わうことがあります。動きによる距離の手がかりが突然なくなるからです。そんな瞬間に、私たちは純粋な視覚の世界を垣間見ているのかもしれません。
ほとんど暗闇の中で、小道の上に星々を見ながら森の中を歩くことを考えてみてください。そうすると、周囲の空間構造の認識を失うことが何を意味するかを理解できるかもしれません。霧の深い森を歩いているときや、雪に覆われた風景を見ているときも、似たような体験ができます。距離の手がかりが少なくなると、世界は色と光だけの、より絵画的な様相を見せ始めます。
論文では、バークリーの洞察が現代の絵画を予感していたのかもしれないと指摘されています⁷。画家たちは、現実の物体を忠実に再現することから離れて、純粋に視覚的な体験—色彩、明暗、形の関係そのものを探求するようになりました。彼らは、バークリーが理論的に示した「純粋な視覚の世界」を、キャンバスの上に実現しようとしたのかもしれません。
触覚の世界との対比
視覚の特殊性をより深く理解するために、論文では触覚の世界との比較も行われています。
目を閉じてみると、視覚的な世界は完全に消え去り、代わりに触覚の世界が前面に出てきます。足の裏が感じる床の感触、背中に当たっている椅子の背もたれ、肘が置かれている机の表面。これらは身体との直接的な接触を通して感じられる「ホームベース」です。
この状態から、記憶を頼りに周囲の物に手を伸ばしてみると、接触は常に少しの驚きとともにやってきます。予想していた位置と微妙にずれていたり、思っていたより近かったり遠かったりします。
これが触覚の世界の「外在性」です。身体の外にある物は、到達するための努力を必要とします。距離とは、身体を動かして空間を橋渡しするのに必要な労力の尺度なのです。
階段の上り下りを考えてみてください。よく使う階段では、足はほとんど迷うことなく次の段を見つけます。廊下を歩くときも、歩数を数えなくても、曲がり角やドアの位置がわかります。これは身体が覚えている空間感覚です。
靴紐を結ぶとき、見ながらやるより、手の感覚に任せた方がうまくいくことがあります。ひげを剃るときも、鏡を見るより目を閉じた方が楽だという人もいます。銀行でサインをするとき、ペン先を注視していると、かえって手が震えてしまうことがあります。
これらの体験は、触覚の世界と視覚の世界が根本的に異なる性質を持っていることを示しています。
新しい光学理論の可能性
バークリーの洞察は、光学理論にも新しい可能性を開くと論文では説明されています。
従来の理論では、光がランプから空間を通って流れ、距離とともに照明効果が弱くなると説明されます。でも、この説明には問題があります。月が太陽に照らされているとき、私たちは太陽光が月に向かって流れているところを見ることはできません。光の流れそのものは見えないのです。
バークリーのアプローチでは、ランプを「視覚の対象」として扱います。ランプそのものの明るさは距離によって変わりませんが、見える大きさは変わります。そして、照明効果を決めるのは、このランプの見える大きさなのです。
二つの同じランプを、一つは近くに、もう一つは遠くに置いて比べてみると、近いランプで遠いランプを隠すように重ねれば、両方とも同じ明るさに見えます。しかし、近いランプの方が大きく見え、遠いランプの方が小さく見えます。
この見える大きさの違いが、照明効果の違いを生み出すのです。見えない光線の流れを想定する必要はありません。見える現象だけで、照明の法則を説明できるのです⁶。
能動的な知覚の発見
この一連の観察と実験を通して、最も重要な発見があります。それは、私たちの知覚が受動的なものではないということです。
論文では、私たちは単に外界を受け取っているのではないと指摘されています。影に洗濯バサミを取り付けようとしなければ、立体視の限界に気づくことはありません。歩行を突然止めなければ、風景の空間的性格の変化を体験することはありません。鍵束を前後に動かしてみなければ、片目と両目の違いを実感することはありません。
私たちの心が状況に問いかけを向けるとき、その状況はより豊かに自らを現してくれます。バークリーが教えてくれたのは、視覚世界への問いかけの重要性です。そして、その問いかけは新たな問いを生み、新たな観察を導きます。
マイヤー氏の論文を読んで、私たちの「見る」という行為が、思っているよりもずっと能動的で創造的だということがよくわかりました。私たちは受け身で世界を見ているのではなく、様々な手がかりを組み合わせて、立体的な世界を「構築」しているのです。
現代のVRやAR技術が急速に発達する中で、人間の視覚がどのように働いているかを理解することは、ますます重要になっています⁸。また、AIが画像を「理解」する仕組みを考える上でも、バークリーの洞察は新鮮な視点を提供してくれるでしょう。
でも何より印象的だったのは、バークリーが示してくれた「当たり前を疑う」姿勢です。朝の散歩で自分の影を見る、片目でものを見てみる、急に立ち止まって風景を眺める。そんな簡単な実験から、私たちの知覚の豊かさと不思議さが見えてくるのです。
今度外を歩くときは、ぜひ自分の影を観察してみてください。そして、その後光が本当に見えるかどうか、確かめてみてください。バークリーが約300年ほど前に気づいた視覚の秘密を、あなた自身の目で発見できるかもしれません。そこから始まる新しい「見方」が、きっと世界をより豊かに見せてくれるでしょう。
脚注
¹ 「視覚のもの」と「触覚のもの」の非共約性: 原文では"the ‘things of sight’ are incommensurable with the ‘things of touch’"とされています。これはバークリーの核心的主張で、視覚と触覚が根本的に異なる感覚領域であり、共通の基準で測ることができないことを示しています。例えば、赤い色の「明るさ」と石の「硬さ」を比較できないように、視覚的な性質(色、明暗、形)と触覚的な性質(圧力、抵抗、温度)は質的に異なる次元にあり、一方を他方の用語で完全に説明することはできません。これは後の現象学や認知科学における「感覚のモダリティ特異性」の先駆的洞察とされています。
² 距離の非視覚性: 原文では"the length of the supposed lines of sight is not a visible quantity. Therefore distance of the seen world from the eye is not part of what we perceive directly in vision"とされています。これはバークリーの光線理論批判の核心部分です。当時の光学理論では光線の長さが距離を決めるとされていましたが、その光線自体が観察不可能であることを指摘し、距離知覚が視覚とは別の機能であることを示唆しました。
³ 月の思考実験: 原文「Suppose, for example, that looking at the moon I should say it were fifty or sixty semidiameters of the earth distant from me [sixty is accurate]. Let us see what moon this is spoken of: it is plain it cannot be the visible moon, or anything like the visible moon, or that which I see, which is only a round, luminous plane of about 30 visible points [half a degree] in diameter…」(たとえば、月を見て、それが私から地球の半径の50倍か60倍離れていると言うとしましょう[60倍が正確]。どの月について話しているのか見てみましょう。それが見える月、あるいは見える月に似た何か、あるいは私が見るもの、つまり直径約30視点[0.5度]の丸い発光する平面であるはずがないことは明らかです。なぜなら、もし私が立っている場所から月に向かって直接運ばれるとすれば、私が進むにつれて対象が変化することは明らかであり、地球の半径の50倍か60倍進んだときには、私は小さく丸い発光する平らな面に近づくどころか、それに似た何も知覚しないでしょう。この対象はずっと前に消失しており、もしそれを取り戻したいなら、私が出発した地球に戻らなければなりません)。これは視覚対象と物理的対象の根本的差異を示す有名な思考実験で、現代の意識の哲学における「現象的意識」の議論の先駆けとされています。
⁴ 「外在性」(outness): バークリーが使用した術語で、物体が身体の外部にあるという感覚を指します。原文では"they lack outness"として言及されています。彼は純粋な視覚体験にはこの外在性が欠けており、立体視や触覚などの他の感覚機能によって付与されると主張しました。現代の認知科学では「空間的定位」や「身体図式」の研究につながる概念です。
⁵ 立体視の進化的意義: 立体視は哺乳類に特有の高度な視覚機能で、特に樹上生活をする霊長類で発達しました。両眼が前方を向き、視野が重複することで生まれる「両眼視差」を脳が処理して奥行きを知覚します。これにより、枝から枝への正確な跳躍や、果実の正確な把握が可能になりました。現代では、外科手術、スポーツ、精密作業などで重要な役割を果たしています。興味深いことに、立体視能力には個人差があり、約5-10%の人は立体視が困難とされています。
⁶ バークリー的光学理論の現代的意義: この「見える面積」による照明理論は、現代のコンピュータグラフィックスやVR技術において「立体角」として実装されています。従来の点光源モデルでは近距離での照明計算に問題がありましたが、光源を面積を持つ物体として扱うことで、より現実的な照明効果を再現できます。また、この考え方は「フォトメトリック・ステレオ」など、複数の光源から物体の3D形状を復元する技術の基礎にもなっています。
⁷ バークリーと現代絵画: 特に印象派から抽象絵画への流れは、バークリーの洞察と深く関連しています。モネの「印象・日の出」は光と色彩の純粋な視覚体験を追求し、セザンヌは「自然を円筒、球、円錐として扱え」と述べて空間表現を幾何学化しました。カンディンスキーやモンドリアンなどの抽象画家は、対象の再現から完全に離れて純粋な色彩と形の関係を探求しました。これらは皆、バークリーが示した「純粋な視覚の世界」の芸術的実現と言えるのかも知れません。
⁸ VR/AR技術への含意: バークリーの洞察は現代のVR/AR技術設計に重要な示唆を与えています。例えば、VRでは視覚だけでなく触覚フィードバック(ハプティクス)を併用することで、より説得力のある「存在感」を生み出しています。また、AR技術では現実の触覚世界にデジタルの視覚情報を重ね合わせる際、両者の整合性が重要な課題となります。さらに、「視覚的距離」と「行動的距離」の乖離は、VR酔いの原因の一つとも考えられており、この問題の解決にバークリーの視点が活用されています。
⁹ ブロッケン現象(後光現象): 正式には「ブロッケンの妖怪」と呼ばれる光学現象で、太陽を背にして霧や雲の中に立つと、自分の影の頭部周辺に虹色の光の輪が見える現象です。ドイツのブロッケン山で多く観察されることからこの名がつきました。光が水滴によって後方散乱され、観察者の目に戻ってくることで生じます。重要なのは、この現象が観察者の視点に依存しており、他人の影には見えないことで、これがバークリーの「視覚の個人性」を示す絶好の例となっています。
¹⁰ 視覚角度の測定: 0.5度という角度は、腕を伸ばして見る小指の爪の幅にほぼ相当します。月と太陽は地球から見ると偶然にもほぼ同じ視覚的大きさ(約0.5度)で、これが皆既日食を可能にしています。この視覚角度の概念は、現代の視覚科学やディスプレイ技術において重要で、VRヘッドセットの解像度や、スマートフォンの最適な視距離などの設計指標として使われています。人間の視覚の限界解像度は約1分角(1/60度)とされ、これが「20/20視力」の基準となっています。