[内容紹介]BEING ON EARTH -4 Intentionality

はじめに

この記事は、『BEING ON EARTH』の第4章:志向性(ロナルド・ブレイディ)の内容を要約しながらご紹介するものです.作成にあたってはAIを活用しています.誤りがないとも言えませんので、その点ご了承ください.
原文はこちらで確認できます(英語pdf)

この内容紹介のAIによる音声まとめ

この第4章「志向性」は、知覚の本質について根本的な問い直しを行う重要な論考です。私たちは普通、世界は客観的に「そこに」存在し、私たちはそれを受動的に見ているだけだと考えています。しかしブレイディは、自身の劇的な体験と綿密な分析を通じて、知覚が実は私たちの能動的な理解活動であることを明らかにします。

論文の構成は巧妙に組み立てられています。まず個人的体験(花崗岩の柱への転倒事件)から出発し、この体験の分析を通じて知覚における理解の役割を発見します。次に、この発見を様々な実験や例証(注意の練習、カニッツァの錯視、隠れた画像の認識など)によって裏付けていきます。そして最終的に、これらの知見を「志向性」という包括的な理論として統合します。

特に重要なのは、ブレイディが哲学的推論だけでなく、心理学実験、生物学教育、文学的洞察など多分野の知見を統合している点です。これにより、知覚の能動性という主張が単なる理論的仮説ではなく、私たちの日常的体験に深く根ざした真理であることが示されます。

論文の中核的主張は「私たちの志向的活動なしには知覚そのものが成り立たない」というものです。これは従来の「客観性」概念を根本から問い直し、観察者の寄与を知覚の「汚染」ではなく「必要条件」として位置づける革命的な視点転換を意味しています。

冒頭部分

ブレイディは論文の冒頭で、知覚についての根本的な問題を提起します。彼の同僚は「何かがそこにある」ということを「信じなければならない」と述べ、世界と私たちの間に明確な「そこ対ここ」の区別があると考えていました。この同僚にとって世界は私たちの感覚にはっきりと現れており、「そこに」存在するものです。たとえ証明はできなくても、世界は知覚される通りにかなり近い状態であると仮定するのが最も保守的な立場だというのが彼の考えでした。

しかしブレイディは、「世界が知覚される仕方」を注意深く観察すると、この「ここ対そこ」版の記述とは全く異なることを指摘します。第三者的な「どこからでもない視点」の記述とは違い、実際の知覚には常に「見ることを行っている知覚者」が含まれています。一般的には知覚者が世界を知覚するために何もする必要がないという虚構が抱かれていますが、実際には知覚者は「非常に多くのことをしなければならない」のです。

ブレイディにとって、直接知覚のどんな詳しい検討も「大部分は私たち自身の活動についての説明でなければならない」ものです。この洞察こそが、彼がこれから展開する志向性についての議論の出発点となります。知覚された世界が私たちの思考から独立して「そこに」あるという常識的な見方に対して、ブレイディは知覚そのものが私たちの能動的な活動であることを示そうとするのです。

私はその柱が堅い花崗岩でできていると信じていました

転倒事件とその衝撃的体験

ブレイディは哲学科に所属していた頃の決定的な体験から話を始めます。ある日、ゲーテの研究を続けながら経験について考察していた彼は、大きなロビーを手を背中で組んで歩き回っていました。考え事に没頭していた時、右足を左足首に引っかけて真っ直ぐに倒れてしまいます。

その瞬間の体験は劇的でした。巨大な花崗岩の柱に向かって倒れる彼は、その「信じられないほどの花崗岩の円筒」の前で自分の頭蓋骨が卵の殻のように脆く感じられました。「その巨大な密度が近づいてきてわずかにかすめて通り過ぎる」のを感じ、衝突は一インチの何分の一かで回避されたものの、「ほんの触れただけでも生き残れないだろう」という恐怖に襲われました。

体験の分析が導いた根本的疑問

しかし床から立ち上がった後、ブレイディは重要なことに気づきます。彼は柱を見ただけで、実際には触れていませんでした。それなのに、なぜあれほど鮮明に「通り過ぎる柱の重量」を感じることができたのでしょうか?

この疑問こそが、彼の哲学的洞察の出発点となります。もし彼が事前にその柱が「カメラのために製造されたプラスチックの化粧板」だと確信していたら、同じような重量感は感じなかったでしょうし、それほど身をすくませることもなかったでしょう。しかし彼は「その柱が堅い花崗岩だと信じていました」。

物体の実体性は私たちの理解によって構成される

ここからブレイディは革命的な洞察を得ます。私たちが感じる「堅い物体の現実」は、「それらが占める空間の感じられる堅さによって大いに表現されて」います。しかし触覚と視覚は実際には「堅いもののの外側の限界だけを検出することができ」、内部の深さを探ることはできません。

石の「石らしさ」、木の「木らしさ」、金属の「金属らしさ」-これらはすべて私たちの「直観的活動が埋めた」ものです。「適切に『堅い』ものはすべて、たとえ中空であっても、対象の硬い形を保持することのできる何らかの実体の有限の体積を含んでいなければなりません」が、この体積感は感覚によって直接与えられるものではないのです。

三次元理解の必要性

さらに重要な発見は、私たちが物体を物質的なものとして理解するためには、「対象を体積の観点から把握しなければならない」ということです。柱を見る時、私たちは見える前面だけでなく、「見えないまま延びている」後面も同時に把握しています。

「見えない後ろの曲線は私の前の見える曲線と同じように感じられていました」とブレイディは述べます。これは単に「柱の後ろを歩いて見たらどのように見えるかを想像できる」こととは全く異なります。「後ろの曲線は、私たちが前面を見るときの理解に必然的に存在し、延長の推定にとって基本的なもの」なのです。

この洞察により、世界の「愚鈍な事実性」と考えられていたものが、実は私たち自身の直観を通して与えられていることが明らかになります。

誰もが直観を持っているが、それを感覚と混同している

コールリッジ²の洞察

ブレイディは、詩人コールリッジの「誰もが直観を持っているが、それを感覚と混同している」という言葉を引用します。私たちは概念的には、物体が体積を持ち前後に延びていることを知っていますが、「私たちがまた実際にこの方法で対象を有形に知覚しているということに気づきません」。

つまり、私たちの概念化は既に知覚の中に組み込まれているのです。視覚だけでは「対象ではなくイメージのみを」、触覚だけでは「触れられた実体の性質を決して伝えない」にもかかわらず、私たちは立体的で実体のある世界を知覚しています。

感覚と直観の協働

「上で記述された事例では現象に対する私たちの精神的寄与は非常に明確です。なぜならそれは感覚の報告と混同されることがないからです」とブレイディは説明します。対象の向こう側は決して感覚的に提示されませんが、「それでも理解に呈示される全体に含まれなければなりません」。

この直観的寄与なしには、「感覚、特に触覚と視覚は世界を表象することができないように思われます」。私たちは理解の行為を維持している間にそれを検討し、「それがそれぞれの形を完成させる仕方を観察できます」。

注意の練習:(1)気づくこと

私たちは何かを見落とす時、「注意を払っていなかった」と説明します。しかし「気づく」とは具体的にどのような活動なのでしょうか。

視覚の場合、指示されたものに視線を移し焦点を合わせますが、これは既に周辺視野でそれに気づいていることが前提です。しかし聴覚では、オーケストラの中でフルートからバイオリンに「耳を移動させたり焦点を合わせたりすることなく」切り替えることができます。

注意の練習:(2)焦点への注意

ミュラー¹の実験では、視覚の焦点を一点に固定したまま、注意だけを周辺に向けることができることが示されました。これは「独立した能力としての注意と身体器官との区別」を実際に体験する方法です。

練習により、目を固定したまま周辺の「色、形、相対的大きさ、数を挙げることができるほど十分に」対象を把握できるようになります。最も困難なのは「『見る』のではなく単に『注意を向ける』ことによって見る方法」の習得です。

注意の練習:(3)無視と注意

注意は感覚器官から独立して機能します。聴覚では、コンピューターのハミング音、給湯管のノック音、鳥の鳴き声など、探索を始める時には「実際に私の意識から不在」だった音も「すぐに現れてきます」。

しかし重要な発見は、注意の移動だけでは不十分だということです。兵士が傷に気づかず、登山者が静止したウサギを見ないのは、「そこにないものに注意を向けることはできない」からです。つまり、何かに注意を向けるためには、まずそれを認識している必要があるのです。

認識すること

準備としての理解

群衆の中で本を探す時、「その本の明確な像を持っていれば、探索ははるかに速い」ことが分かります。詳細について間違っていると、「真っ直ぐ見ても認識できません」。これは「私が対象を認識するのは、外から提示されるものと同様に内的な準備を通してである」ことを示しています。

カモフラージュの原理

カモフラージュが機能するのも、この内的準備を利用するからです。「葉のパターンで塗装されれば消えて見える」建物も、「直線や水平線を探すとき、建物は見えるようになり」ます。「観察者が葉への期待を形成していなければ決して消えることはなかった」のです。

認識は真空中では起こりません。「私たちは新しいものよりもはるかに簡単に馴染みのあるものを見ます。私たちは期待しないものよりも期待するものをより簡単に見ます」。

隠れた像

牛の写真での実験

ブレイディは非常に粒子の粗い写真(図1、ただし著作権の関係で本文では省略)を例に挙げます。この写真は「実際の写真ですが、質が悪く非常に粒子が粗い」もので、最初は「認識可能な像が利用できないように思われます」。

しかし「動物の写真」「牛」といったヒントにより、突然牛の姿がはっきりと見えるようになります。「名前はしばしば素早い結果を生み出します。なぜなら人はすでにその動物に馴染んでいるからです」。

統一性の謎

興味深いのは、牛を見つけることが「正しい視角を見つけることと等しくない」ことです。「私たちがそれを真っ直ぐ見ているときでさえ、牛はまだ位置を特定できる場所ではありません。なぜなら私たちの視線には別々の暗い部分と明るい部分しか見つからないからです」。

牛は「私たちがそれを見るまでは、事物として私たちが把握できる統一性を持ちません。しかし見られたとき、それは統一された状態で現れます」。この統一性は一体何が提供しているのでしょうか?

カニッツァの描かれていない形

存在しない三角形の出現

ガエターノ・カニッツァの視覚実験は、ブレイディの理論にとって決定的な証拠となります。「部分が欠けた三つの黒い円と白い背景上の三つの曲がった線を配置することによって、中央の白い三角形の知覚を生み出し」ます。

観察者は「明らかに即座に、構成の中心に白い三角形を見」ますが、これは「形がどのように理解されたかによって」生じます。「白い三角形が見られるなら、その下にある形は閉じたものとして把握されます」。つまり、黒い円は完全なものとして、曲がった線は連続した三角形の一部として理解されるのです。

理解の時間的先行性

最も重要な発見は、「私たちがそれを見るために特定の方法で構成を理解しなければならないことを意味し、私たちがそれを見た後でこの理解に到達するのではない」ということです。

半透明効果の実験でも同様です。灰色の長方形を背景図形として理解すると「その見かけの明るさは消失します」。「この『ぼんやりした』気分では、デザインの要素は少し『泳いで』いるように思われ、別々の要素以外の何物でもないものとして現れます」が、「全体を理解しようとする最もわずかな試み」により統一された図形が戻ってきます。

意図の先行性

「直観に反して、認識の行為は認識の事実に直ちに先行する私たちの活動の中にあります」とブレイディは結論づけます。「言及された対象は最初の気づきですでに閉じています。したがって、それらを閉じたものとして理解することは、白い形に気づく私たちの方法なのです」。

私たちの意図が現れに先行しているのです。

活動と意識:意味の発見

知覚活動の見過ごし

H・H・プライス⁵は「知覚的行為は…活動ではない」と述べましたが、これは明らかに間違いです。「プライス教授が知覚に活動を見出さないのは、彼がそれを探さなかった」からです。

曖昧文の実験

ブレイディは学生に曖昧な文章を読ませます。「What frightened John was looking at Mary.」は「ジョンはメアリーを見て怖がった」とも「ジョンを怖がらせたものがメアリーを見ていた」とも解釈できますが、「両方がほぼ即座に聞かれない限り選択の感覚はありません」。

「行の意味が言葉とは独立して変化するので、私たち自身の理解の行為が明らかに違いを作った」のです。私たちはこの理解の活動を「事後に気づくようになります」。

あなたを嘲笑する虫を持ってきなさい

分析的知識と認識的知識の違い

生物学者パンティン⁶は、科学論文では種を分析的に記述する必要があるが(「すべてのXは特徴1、2、3、4を持つ」)、野外では違うアプローチが有効だと発見しました。

彼は学生にプラナリアの採集を指示する際、「あなたを嘲笑する虫を持ってきなさい」と言いました。この詩的な表現により、「正しい種を採集する確率が高くなる」ことが分かったのです。

美的認識の力

このような認識は「美的認識」と呼べるものです。「良い隠喩は、いくらの限定を付け加えても、散文による言い換えによって伝達されることはできません」が、「詩的言語がしばしばそれらのある感覚を捉える」ことができます。

認識は学習可能です。「私がリンコデムス・バイリネアトゥスを嘲笑の観点から見て、したがってそれを認識するように、いっそう可能にします」。

志向性

根本問題:意識はいかにして対象を得るか

ブレイディは最終的に知識理論の根本問題に取り組みます。「意識はどのように経験の対象を手に入れるのか?」間違った知覚も含めて、あらゆる経験は何らかの「見え方」を持っています。問題は「私はどのように見え方を意識するようになるのか?」です。

志向的提案のメカニズム

知覚の過程は一般化できます:

「(1)感覚可能な状況に直面して、知覚者はそれを把握するための志向的提案、つまり関係の組み合わせを前進させなければならない。

(2)知覚者はこの提案の結果を意識するようになる。時として安定した知覚として、時として二度見の最初の不安定な部分として」

重要なのは、「志向的提案は(意図的な練習という稀な場合を除いて)意識的心によって前進させられる必要はない」ということです。「むしろ、意識は成功した提案の結果」なのです。

注意の神秘性

「『注意を払う』ことは、私たちが親密に知っていながら同時に全く理解していない神秘的な活動です」。それは「感覚的状況を理解可能にするために、潜在的なものを完成させる志向的能力の働き」なのです。

オグデン・ナッシュ⁷の詩にあるアメンボのように、「もし彼がどうやってそれをするのかと考えるのを止めたら、彼は沈んでしまうだろう」。知覚の過程をあまりに詳しく分析しようとすると、かえってその自然な働きを見失ってしまう危険があります。

しかし、この分析を通じて明らかになったのは、私たちの知覚が決して受動的な過程ではなく、積極的な理解活動であるということです。「関係は決して受動的に受け取られることはなく、常に理解の行為によって把握される」のです。私たちは「それらを取り入れるためにはそれらを考えなければなりません」。

世界は単に「そこに」あるのではなく、私たちの志向的活動を通して初めて意味のある世界として現れるのです。


脚注

¹ ヨハネス・ペーター・ミュラー(Johannes Peter Müller, 1801-1858):ドイツの生理学者、比較解剖学者です。コブレンツに靴職人の息子として生まれ、ボン大学とベルリン大学で学んだ後、1833年にベルリン大学の解剖学・生理学教授となりました。19世紀最大の自然哲学者の一人とされ、主著『人間生理学便覧』(2巻、1834-40年)は生理学の基礎を築いた古典的名著です。彼の最も重要な発見は「感覚の特殊エネルギー法則」で、各感覚器官がそれぞれ特有の方法でのみ刺激に応答するという原理を確立しました。特に視覚研究において、目の焦点と注意の独立性について実験的検討を行い、注意が身体器官から独立して機能することを実証しました。ブレイディが引用する実験は、この発見を示すものです。ミュラーの学派からはヘルムホルツ、エミール・デュ・ボア=レーモン、テオドール・シュワンなど、後の生理学を牽引する多くの優秀な科学者が輩出されました。ブレイディにとってミュラーは、知覚における能動的要素を実験的に証明した先駆者として重要な位置を占めています。

² サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge, 1772-1834):イギリスのロマン派詩人、哲学者、文学批評家です。デヴォンシャーに生まれ、ケンブリッジ大学で学びましたが学位を取得せずに退学しました。ワーズワースとの友情で知られ、『抒情歌謡集』(1798年)を共同出版しました。代表作には『古の船乗り』『クブラ・カーン』『クリスタベル』などがあります。詩人としてだけでなく、カントやシェリングなどドイツ観念論哲学の紹介者としても重要な役割を果たしました。彼は想像力を「第一次想像力」(知覚における基本的な統合力)と「第二次想像力」(詩的創造力)に区分し、認識における創造的要素を重視しました。ブレイディが引用する「誰もが直観を持っているが、それを感覚と混同している」という言葉は、まさにこの論文の中心テーマである直観的理解と感覚的受容の区別を先取りした洞察として位置づけられています。コールリッジの哲学は、認識が受動的受容ではなく能動的構成であることを詩的言語で表現したものといえます。

³ エドムント・フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938):ドイツ系オーストリアの哲学者で、現象学の創始者として20世紀哲学に決定的な影響を与えました。モラヴィアのプロスニッツ(現チェコ)にユダヤ系家庭に生まれ、ライプツィヒ、ベルリン、ウィーン各大学で数学と哲学を学びました。フランツ・ブレンターノに師事し、意識の志向性という概念に出会います。主著『論理学研究』(1900-01年)、『イデーン』(1913年)、『危機』(1936年)などで、「意識は常に何かについての意識である」という志向性の原理を確立しました。フッサールの現象学は、自然的態度を「括弧に入れ」、意識と対象の相関関係を記述することで、認識の基礎構造を明らかにしようとします。ブレイディが本論文で展開する「志向的提案」や「志向的活動」という概念は、直接的にはフッサールの志向性理論に由来しています。ただし、ブレイディは歴史的関心ではなく、自身の体験から出発して同様の洞察に到達したと述べており、フッサールとの独立した発見の一致を強調しています。ハイデガー、サルトル、メルロ゠ポンティなど多くの哲学者に影響を与えました。

ガエターノ・カニッツァ(Gaetano Kanizsa, 1913-1993):イタリアの心理学者で、知覚心理学、特に視覚的錯覚の研究分野における最も重要な人物の一人です。トリエステに生まれ、同地の大学で心理学を学んだ後、1946年にトリエステ大学心理学研究所を創設し、35年間にわたって同大学の教授を務めました。彼の研究は主に視覚知覚に焦点を当て、特に「主観的輪郭」「錯視的輪郭」「アモーダル補完」の研究で国際的名声を得ました。1955年に発表した「カニッツァの三角形」は、3つの欠けた円と3つの角度のある線だけで、実際には描かれていない明るい三角形を知覚させる錯視実験として、知覚心理学の古典となりました。この実験は、脳が不完全な情報から完全な図形を「補完」する能力を示し、知覚が単なる受動的受容ではなく能動的構成であることを実証しています。ブレイディの論文では、この実験が「理解が知覚に先行する」という中心テーゼの決定的証拠として位置づけられており、私たちが対象を意識する前に志向的理解が既に働いていることを示す重要な例証となっています。カニッツァの発見は、知覚における認知的要素の重要性を科学的に立証したものとして、ブレイディの哲学的議論を強力に支えています。

H・H・プライス(Henry Habberley Price, 1899-1984):ウェールス出身のイギリスの哲学者で、20世紀前半の知覚論における重要な論者です。ウェールズのニースに生まれ、ウィンチェスター・カレッジとオックスフォード大学ニューカレッジで古典学を学び、1921年に優等学位を取得しました。その後、マグダレン・カレッジ(1922-24年)、リヴァプール大学(1922-23年)、トリニティ・カレッジ(1924-35年)を経て、1935年から1959年まで母校ニューカレッジのワイカム論理学教授を務めました。主著『知覚』(1932年)では、感覚与件説の精緻化を図り、ロックの因果説やミルの現象主義を批判しながら独自の知覚理論を展開しました。しかし、ブレイディが引用する「知覚的行為は活動ではない。そこには騒がしさの要素はなく、疑問や質問もない。人はそれに苦労をかける必要がない」という記述は、まさにブレイディが批判する受動的知覚観の典型例として取り上げられています。プライスは知覚を「論証的思考の労働からの恵まれた安らぎ」と表現しましたが、ブレイディはこれに対して、知覚こそが最も能動的な理解活動であることを対置しています。興味深いことに、プライスは後年、自らの初期の見解を修正し、知覚における主体の能動的役割をより重視するようになりました。また超心理学研究にも関心を示し、心霊現象の哲学的考察も行いました。

C・F・A・パンティン(Carl Frederick Abel Pantin, 1899-1967):イギリスの動物学者で、ケンブリッジ大学の生物学講師として長年教鞭を執りました。海洋無脊椎動物、特に腔腸動物(クラゲやイソギンチャクなど)とプラナリア(扁形動物)の研究で知られています。パンティンの重要な貢献は、科学における認識方法の二重性を指摘したことです。彼は科学論文では厳密な分析的記述(「すべてのXは特徴1、2、3、4を持つ」)が必要である一方、実際のフィールドワークでは全く異なるアプローチが有効であることを発見しました。特に有名なエピソードとして、学生にプラナリアの一種リンコデムス・バイリネアトゥスの採集を指示する際、「あなたを嘲笑する虫を持ってきなさい」という詩的な表現を用いたことがあります。この比喩的指示により、学生たちは正しい種を高い確率で識別できるようになりました。パンティンはこのような認識を「美的認識」と呼び、分析的方法では伝達できない「全体」の把握の重要性を強調しました。ブレイディの論文では、パンティンの発見が科学においてさえ直観的理解が不可欠であることを示す重要な例証として引用されており、認識が学習可能な技能であることを裏付ける証拠となっています。これは論文全体の主張である「認識は受動的受容ではなく能動的理解活動である」ことを、科学教育の実践面から支持するものです。

オグデン・ナッシュ(Ogden Nash, 1902-1971):アメリカの詩人で、20世紀アメリカ文学におけるユーモア詩の第一人者です。ニューヨーク州ライに生まれ、ハーバード大学に1年間在学後、様々な職業を経て詩人となりました。彼の詩の特徴は、しばしば韻律を意図的に崩し、わざと不完全な韻を踏むことで独特のコミカルな効果を生み出すことでした。動物や日常生活を題材とした軽妙な詩で人気を博し、『ニューヨーカー』誌などに多くの作品を発表しました。ブレイディが引用するアメンボ(Water Skater)についての詩は、「もし彼がどうやってそれをするのかと考えるのを止めたら、彼は沈んでしまうだろう」という内容で、自然な能力に対する過度の意識的分析が、かえってその機能を阻害してしまうというパラドックスを表現しています。この詩は、ブレイディの論文において、知覚の志向的活動を過度に分析することの危険性を警告する比喩として用いられています。アメンボが水面を滑る自然な能力と同様に、私たちの知覚活動も、その機制を意識的に分析しすぎると、かえって自然な働きを見失ってしまう可能性があることを示唆しています。これは論文の最終部分で、知覚の神秘性と、それを理解することの困難さを表現する適切な比喩として機能しています。