[要約]BEING ON EARTH -1 Direct Experience

この記事は、『BEING ON EARTH』の第1章:直接経験(ロナルド・ブレイディ)の内容をまとめたものです.作成にあたってはAIを活用しています.誤りがないとも言えませんので、その点ご了承ください.
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この記事のAIによる音声まとめ

章全体の概要

この章では、ブレイディが現代科学における「経験」の地位に根本的な疑問を投げかけ、新しい知覚理論を提示しています。著者は「経験」という概念の歴史的変化から出発し、ガリレオ以降の科学的世界観を批判的に検討した上で、直接経験の現象学的分析を通じて、従来の主体-客体分離モデルに代わる新しいアプローチを提案しています。

論証の流れは以下の通りです。まず「経験」が客観的証拠から主観的見解へと意味を変えた問題を指摘し、著者自身の学習体験を通じてこの問題を具体化します。次にガリレオの第一性質・第二性質の区別とその問題点を分析し、直接経験の詳細な観察を通じて感覚と心の働きを検討します。そして従来の機械的知覚モデルの根本的矛盾を暴露した上で、知覚を二つの要素の「出会い」として捉える新しい視点を提示し、最終的に私たちの能動的活動こそが安定した知覚世界を生み出すという結論に到達します。

経験概念の歴史的変化

「経験」という言葉の意味の変化について論じています。もともと「経験」は、ラテン語の「試験」や「証明」に由来する言葉で、現実についての確かな証拠を意味していました。英語でも「専門家(expert)」という言葉の語源になっているように、経験は知ることへの積極的な取り組みを表していたのです。

ところが現代では、「もちろん私は自分の経験からしか語れませんが…」といった表現に見られるように、経験は「個人的な見解」という相対的なものに変わってしまいました。この意味の逆転は、科学の分野でも問題を引き起こしています。経験科学は本来経験に基づくべきなのに、実際の科学では客観的な知識が重視され、個人の経験は主観的なものとして退けられているのです。

間違った考えを持った学生の思い出

著者自身の体験談として、化学を学んでいた大学時代のエピソードが語られます。著者は化学実験での匂いや色、光といった感覚的な体験に魅力を感じていましたが、教授から「それは中世の錬金術に近く、真の化学ではない」と指摘されました。真の化学は分子や原子といった理論的な世界を扱うものであり、感覚的体験は二次的なものに過ぎないというのです。

後にバークレー大学で、ゲーテの科学的アプローチ(直接経験を重視する方法)について話した際も、形態学者から「あなたは自然の鑑賞者であり、私は生産的な科学者だ」と言われ、同様に感覚的経験の価値を否定されました。

しかし著者は、ユーカリの森で自然を体験した時、感覚的現実の重要性を実感します。この「具体的で触れることのできる」現実を単なる美的な楽しみとして退けることに疑問を感じ、経験の二つの意味(客観的証拠としての経験と主観的見解としての経験)の関係を見直す必要があると考えるようになりました。

真剣に取り組む

この書籍は、著者と二人の物理学者、一人の哲学者が意見を交換したことから書かれることになりました。彼らは科学において直接経験が軽視されることに疑問を持ち、別のやり方でより良い結果を得られると考えました。

ガリレオの業績について詳しく論じられます。ガリレオは、数学的に扱える「第一性質」(形、速度、大きさ、質量、数)のみに注目し、色や音、匂いといった「第二性質」を人間の意識の中にのみ存在するものとして除外しました。この抽象化によって数理物理学が可能になり、科学は大きな成功を収めました。

しかし問題は、この方法が世界を見る一つの方法に過ぎないのに、唯一の真の現実として扱われるようになったことです。測定可能なもののみが実在であり、それ以外は主観的とする考え方が定着しましたが、これは「法則的なもの」と「測定可能なもの」を同一視する弱い前提に基づいています。法則と数値測定の徹底した等式は弱い前提であり、直接経験に耐えうるようなものではありません。

直接経験の検討

ここから著者は、直接経験そのものを体験によって探究するという「非科学的」とされる方法を提案します。これは個人の立場からの内省的な方法ですが、法則的現実を記述することを目指しています。この手法は現象学的分析²と呼ばれるもので、意識に現れる現象をそのまま記述し分析する方法です。

具体例として、再びバークレーのユーカリの森での体験が詳しく分析されます。森に入って木の実を観察する過程で、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった異なる感覚が自然な順序で働くことが示されます。遠くで働く感覚(視覚、聴覚)が文脈を設定し、近距離の感覚(触覚、味覚)がより詳細な情報を提供するという構造があります。

重要な発見は、異なる感覚からの報告が統一された一つの対象(ユーカリの実)として経験されることです。この統一は個々の感覚だけでは説明できず、感覚を使用し理解する私たち自身の働きによって生み出されることがわかります。つまり、知覚における観察者の積極的な役割が明らかになるのです。

第一の疑問:感覚は発見するのか、それとも製造するのか?

感覚の信頼性に関する根本的な疑問が提起されます。ヨハネス・ミュラー¹の「特殊神経エネルギーの原理」が紹介され、感覚は外部の刺激の性質ではなく、感覚器官自体の性質によって決まることが説明されます。

具体例として、舌先を指で弾くと塩味を感じること、閉じた瞼を押すと光や色のパターンが見えることなどが挙げられます。これらの現象は、感覚器官が外部刺激の種類に関係なく、常に自分固有の「言語」(光と色、音、匂い、味など)で反応することを示しています。

この発見は、感覚が外部世界を正確に再現するという考えに疑問を投げかけます。特に色、音、匂いといった「第二性質」の内容が問題視され、ガリレオとニュートンの戦略(第二性質を除外し、第一性質のみで世界を記述する方法)の根拠とされました。

第二の疑問:心の統合する力

感覚器官の貢献に加えて、心の働きによる貢献も検討されます。実際に物事が「見える」のは感覚器官ではなく、私たち自身です。感覚器官は機能を果たしますが、判断は下しません。

ユーカリの森での体験を振り返ると、著者は複数の感覚からの報告を統合して、一つの seamless な世界として経験していました。実が落ちる音を聞いて木を見上げ、視覚と聴覚を effortlessly に調整していたのです。これは各感覚器官が独立して働いているにもかかわらず、心がそれらの報告を統一する力を持っているからです。

この統合力がなければ、私たちは個別の感覚報告の寄せ集めしか経験できないでしょう。しかし実際には、多様な性質を持つ一つの豊かな世界として経験されます。この統合作業は、ヨハネス・ミュラーも指摘したように、感覚報告を調整する必要不可欠な働きなのです。

心の注意し意図する力

ミュラーは感覚とは別の心的活動として「注意」や「意図」の働きを指摘しました。私たちの注意が感覚経験を焦点に持ち込んだり、意識の閾値以下に落としたりするのです。

オーケストラの演奏を聞く時、フルートに注意を向けると他の楽器は背景になり、弦楽器に焦点を移すとフルートが背景になる例が示されます。深刻な怪我の痛みでさえ、注意が他に集中していると感じられないことがあります。

さらに重要なのは、注意が物事を消失させる力を持つなら、物事を出現させる力も持つということです。「二度見」の現象がその典型例として分析されます。最初は一つの見方で状況を捉えますが、短時間のうちに視野が再配置され、全く異なる見方で同じ状況を捉えることがあります。「白鳥と思ったらエプロンを着た女性だった」といった体験です。

この現象は、知覚が能動的な知覚者からの関係の提案なしには意識に到達できないことを示しています。つまり、第一性質も含めて、すべての知覚が私たちの能動的な活動によって構成されているのです。

主体と客体のモデル化された関係──歴史的問題

ここで根本的な問題が提起されます。これまでの議論はすべて、知覚する主体と知覚される客体が独立した二つの対象であるという前提に基づいています。この「機械的知覚モデル」では、客体が主体の感覚器官に影響を与え、その変化を通じて知覚が生じるとされます。

しかしこのモデルには深刻な問題があります。外部対象の正確な像を得るためには、知覚過程から独立した情報が必要ですが、そのような情報を得る方法がモデル自体によって否定されているのです。これは「遂行的矛盾」³と呼ばれる問題です。

さらに、主体についての知識も同じ困難に直面します。主体を知るためには、主体も知覚の対象にならなければなりませんが、それなら客体と同じ問題を抱えることになります。つまり、知覚の問題を構築するために前提とする知識そのものが、そのモデルによって疑問視されてしまうのです。

ガリレオの第一性質と第二性質の区別は有効な抽象化でしたが、これが「外部に実在するもの」と「意識内にのみ存在するもの」の区別として扱われるようになったのは別の問題です。この判断は元の区別から論理的に導き出せるものではなく、後から付け加えられた仮定なのです。

私たちの感覚は出会いを証言する

従来の機械的モデルの問題を指摘した後、著者は別のアプローチを提案します。知覚を「どこからでもない場所から見られた事実」ではなく、「出会いの証言」として捉えるのです。

私たちが森を知覚する時、森について学ぶと同時に、知覚者としての自分についても学んでいます。なぜなら私たちの身体も同じ世界の一部であり、感覚的状況は常に二つの要素(知覚者と知覚対象)の相互作用だからです。

可視的な像は一つの場所からのみ得られ、音の質も同様です。可視的世界は常に「見られた」世界として、触覚の世界は「触られた」世界として構造化されており、すべての観察は意識的観察者「のための」ものです。

これは知覚が主観的だということではありません。むしろ、観察者と観察状況が常に観察対象と共に現れるということです。知覚的世界は全体であり、私たちは経験の他方の極(主体か客体か)と選択の可能性を常に暗黙のうちに意識しているのです。

私は目によると同じくらい理解によって「見る」

選択の問題がより具体的に検討されます。池や湖の縁で、同じ場所から水面の反射と水底の両方を見ることができるが、どちらか一方しか同時には見えない例が示されます。これは目の焦点の問題のようですが、より深い意味があります。

重要なのは、どちらの像も私が注意を向けるまでは「そこにない」ということです。像を得るためには、まず私がそれに焦点を当て、選択する必要があります。この準備的な活動なしには、どんな知覚も生じません。

浅い湖での波の観察例では、さらに複雑な状況が分析されます。透明な水を通して砂底が見え、水面には遠くの木々が反射し、さらに表面には波があります。これら三つの異なる像を得るためには、それぞれ異なる心的焦点が必要です。

波を見るためには、単に目の焦点を変えるだけでなく、規則的な歪みを「単一平面の関節運動」として理解する必要がありました。この理解なしには、波は全く見えなかったでしょう。つまり、「私は目によると同じくらい理解によって見る」のです。

触覚の例でも同様のことが示されます。重い真鍮のランプを握る時、ランプの固さと冷たさに注意を向けることもできるし、手のひらの冷たさや緊張に注意を向けることもできます。同じ感覚的状況で、注意の向け方によって全く異なる経験が得られるのです。

注意の対象としての経験

ここで著者は、経験そのものを観察対象として扱うという特異なアプローチについて説明します。通常私たちは経験の対象に焦点を当てますが、ここでは経験の性質そのものに注意を向けています。

経験は必然的に「誰かのための」ものであり、その人だけが直接知ることができます。私たちが自分の経験を振り返る時、それが自分に属することがわかりますが、なぜ属するのかがわかるのは、知覚状況に出会う自分の活動を意識する時だけです。

知覚の多価的性質(同じ感覚的状況から異なるものを見つける能力)は、科学的観察には見られない形で知覚を主体の活動に結びつけます。私の「経験」は、私が状況をどう理解するかによって決まる状況の表現でもあるのです。

知覚的誤りと知覚的成功はどちらも理解と切り離せません。「一瞬あなたを兄だと思った」といった体験が示すように、認識には必ず思考の要素が含まれています。この認知的要素は知覚的対象から分離することができません。

私たちは通常、周りの像を自分の参加から独立したものとして表現しますが、これ自体が一つの表現方法に過ぎません。問題は感覚から来るのではなく、私たちの理解や誤解の方法から来ているのです。

「誰が土地を測ったのか?」

シェイクスピアの『ヘンリー五世』から引用された言葉で、客観性の基盤に対する根本的な疑問が提起されます。科学的言説の特徴として、個人の観察者を除去しようとする傾向が分析されます。

科学論文では受動態が多用され、「私が蒸留物をフラスコに注いだ」ではなく「蒸留物がフラスコに注がれた」という表現が好まれます。これは対象中心の世界観を反映していますが、その結果、証人の証言が単なる測定と手順の記録に置き換えられてしまいます。

しかし証人の証言が有効であるためには、「信頼できる証人」である必要があり、その信頼性は証人の理解と技能に依存します。野外での種の識別や動物の痕跡の発見など、高度な知覚技能は長年の訓練を要求します。信頼性は測定から導き出されるのではなく、観察者の技能と知性から生まれるのです。

観察者の貢献を最小化すれば正確性が最大化されるという前提は、実際の知覚技能の現実と矛盾しています。むしろ、より正確に「見る」ためには、より大きな知覚技能と理解が必要なのです。

私の活動が安定した対象を生み出す

最後の節で、著者は積極的な結論を提示します。機械的モデルの遂行的矛盾を指摘した後、より建設的なアプローチが示されます。

現代の知覚理論はすべて、主体に思考以外の何か(感覚的状況)が「与えられる」ことに同意しています。しかしこの与えられた要素は、まだ認識可能な事物の世界ではありません。事物は、私が表現のモードを選ぶ時にのみ生じるのです。

感覚的状況だけでは事物にラベルを付けることができず、私は自分自身の理解の行為を通じてそれらを認識しなければなりません。つまり、私たちは経験から始まるのではなく、感覚的に与えられたものに対する自分の活動を通じて経験を創造するのです。

世界の発見に先行する活動は無作為ではなく、一定の基準を含んでいます。子供でも「もう一度見て」最初の印象を訂正する能力を持っています。この能力は、私たちが同じ対象について異なる見方を得ているという理解に基づいています。対象は安定しており、それについての見方が変更可能だという枠組みです。

この枠組みがなければ、「探索」という概念も「訂正」という概念も成り立ちません。私たちは何かを学ぶ前に思考する方法を知っており、理解する前に理解しようとする意図を持っています。つまり、志向性は自分自身の指示を含んでおり、認知の対象への意識が生じる前に、すでに私たちの努力を導いているのです。

ガリレオが感覚を信頼できないとしたのは、第二性質を除外して第一性質のみを扱う世界だけを想像できたからでした。しかし私たちの安定性への探索は、まず感覚的状況に直接向けられています。そしてその領域で知覚は毎瞬間成功を収めています。

直接知覚の明らかな真理から始めれば、感覚と心の貢献について提起された疑いは深刻な問題ではなくなります。それらの疑いは仮定的なモデルから生じたものだったのです。真理の試験は主体の活動の内に存在し、主体と知覚的対象は分離できませんが、それは問題ではなく、知覚が可能になる条件なのです。


脚注

¹ ヨハネス・ミュラー(Johannes Müller, 1801-1858): ドイツの生理学者・解剖学者で、「感覚生理学の父」と呼ばれます。ベルリン大学で教鞭を取り、多くの優秀な弟子を育てました(ヘルムホルツもその一人)。彼が1838年に提唱した「特殊神経エネルギーの原理」は、感覚生理学の基礎理論となりました。この原理によれば、私たちが感じる感覚の種類(光、音、痛みなど)は外部刺激の性質によって決まるのではなく、刺激を受ける神経や感覚器官の種類によって決まります。具体的には、視神経に機械的圧力をかけても光が見え、電気刺激を加えても光が見えます。同様に聴覚神経への様々な刺激は常に音として感じられます。つまり各感覚器官は、どんな種類の刺激を受けても、自分固有の「感覚言語」でしか反応できないのです。この発見は、私たちの感覚が外部世界を「そのまま」反映しているという素朴な考えに疑問を投げかけ、感覚の主観性を科学的に示した画期的な理論でした。ブレイディはこの理論を、感覚の信頼性に対する「第一の疑問」の根拠として引用しています。

² 現象学的分析: ブレイディがここで用いている手法は、エドムント・フッサール(1859-1938)が創始した哲学的現象学とは根本的に異なるアプローチです。この違いを理解するために、同じ対象(例えば赤いバラ)を両者がどう扱うかを比較してみましょう。

フッサールの現象学の場合: フッサールはまず「エポケー(epoché:判断停止)」という手続きを行います。これは、そのバラが「実在する物理的対象である」「庭に植えられている」「昨日水をやった」といった、私たちが普通に信じている事実判断をすべて「括弧に入れて」一時停止することです。この「自然的態度」(世界が客観的に存在するという素朴な信念)を停止することで、純粋に「意識に現れる現象としてのバラ」だけに注目します。フッサールが探求するのは、「バラについての意識」の構造そのものです。つまり、「この赤さはどのように意識に与えられているか」「この形はどのような意識作用によって統合されているか」「時間の中でどのように同一のバラとして認識されるか」といった、意識の超越論的構造を厳密に分析します。目標は、あらゆる経験を可能にする普遍的で必然的な意識の法則を発見することです。

ブレイディ(ゲーテ的)の現象学の場合: ブレイディは同じバラを見る時、むしろ自然的態度を保持し、実際の知覚体験をそのまま詳細に記述します。彼が注目するのは「私はどのようにしてこのバラを見ているのか」という具体的プロセスです。例えば、「最初に赤い色が目に飛び込んできた」「近づくにつれて花びらの質感が感じられるようになった」「香りに気づいて初めて『バラ』として認識した」「しかし注意を向ける角度によって、全く違う印象を受ける」といった、知覚者の能動的活動を追跡します。彼が重視するのは、意識の抽象的構造ではなく、生きた体験の中で働いている選択、注意、理解の具体的プロセスです。

決定的な違い: フッサールは客観世界から意識を切り離して純粋化することで普遍的真理に到達しようとしますが、ブレイディは知覚者と知覚対象の生きた関係の中にこそ真理があると考えます。フッサールにとって現象学は厳密な哲学的方法論ですが、ブレイディにとっては誰もが実践できる具体的な観察技法なのです。また、フッサールが目指すのは超越論的主観性の解明ですが、ブレイディが目指すのは知覚における主体と客体の分離不可能な統一の理解です。

この違いは、ゲーテの自然科学的アプローチに由来します。ゲーテは植物を観察する時、植物を抽象的概念に還元するのではなく、具体的な成長過程や変化の中に植物の本質を見出そうとしました。同様にブレイディも、知覚を抽象的な意識構造に還元するのではなく、具体的な知覚体験の動的プロセスの中に知覚の本質を見出そうとしているのです。

³ 遂行的矛盾(performative contradiction): これは、ある主張や理論を提示するその行為自体が、その主張の内容と論理的に矛盾している状態を指す哲学用語です。日常的な例で言えば、「私は決して嘘をつかない」と嘘をついて言う場合や、「言葉では何も伝えられない」と言葉で主張する場合などがこれにあたります。機械的知覚モデルにおける遂行的矛盾は、より複雑で根本的です。このモデルは「知覚は外部対象を客観的に写し取る受動的プロセスである」と主張します。しかし、このモデル自体を構築するために必要な知識——主体と客体の区別、外部世界の存在、感覚器官の働き、因果関係の概念など——はすべて知覚体験を通じて得られたものです。つまり、知覚を「主観的で信頼できない」と批判するそのモデルが、批判している当の知覚に全面的に依存しているのです。さらに深刻なのは、モデルを検証するための「観察」や「実験」も知覚を前提としていることです。ブレイディが指摘するのは、このモデルが否定しようとしている知覚の確実性こそが、モデル自体の基盤になっているという根本的矛盾です。これは単なる論理的不整合ではなく、近代科学の認識論的基盤に関わる深刻な問題なのです。