見ることの革命:ある化学者が発見した知覚の秘密(内容紹介:BOE-1)

プロローグ:錬金術師と呼ばれた学生

1960年代、カリフォルニア大学バークレー校。化学を専攻する一人の学生が、教授の研究室で厳しい言葉を浴びせられていました。

君の情熱は化学ではない。それは中世の錬金術に近い

その学生、ロナルド・ブレイディは、化学実験に魅力を感じていました。しかし彼が心を奪われていたのは、分子や原子の理論ではありませんでした。試験管から立ち上る匂い、溶液が示す鮮やかな色、炎の光と激しさ——そうした感覚的な体験こそが、彼にとっての化学だったのです。

「真の化学は分子と原子の世界です。あなたが感じている色や匂いは、外部の現実ではなく、単にその現実が人間の感覚に与える影響に過ぎません」

教授の言葉は明確でした。科学者になりたければ、感覚的体験から離れ、数学的に記述できる「客観的現実」に目を向けなければならない。

落胆したブレイディは、やがて化学を離れ、文学の道に進みました。しかし数年後、今度は別の場面で同じような指摘を受けることになります。

自然の鑑賞者か、生産的な科学者か

バークレー大学の大学院生となったブレイディは、ドイツの詩人で科学者でもあったゲーテの研究に取り組んでいました。ゲーテは「直接経験を保ちながら科学する」という独特のアプローチを提唱していたのです。

ある日、彼は形態学者にゲーテの科学的手法について話をしました。研究者の反応は冷ややかでした。

「あなたがそのアプローチに興味を持つのは、あなたが自然の鑑賞者だからです。私は生産的な科学者なのです」

またしても、ブレイディの関心は「科学的」ではないと判断されました。感覚的経験や直接的知覚は、美的な楽しみにすぎず、真の科学的知識とは無縁だというのです。

しかし、その会話の直後に起こった出来事が、ブレイディの人生を変えることになります。

ユーカリの森での気づき

形態学者との会話を終えたブレイディは、失意のままキャンパスを歩いていました。やがて彼は、巨大なユーカリの森の縁に立っていました。

朝の陽光が木々の間を縫って差し込み、空気はユーカリの香りで満ちていました。鳥のさえずりと、見えない昆虫の羽音が聞こえてきます。足元には、木から落ちた実や葉が散らばっています。

その瞬間、ブレイディは直感しました。

「この感覚的現実は、単なる『鑑賞』だろうか?もし私がこれらを『具体的で触れることのできるもの』と呼んだとしたら、私の基準は本当に『単に美的』なものなのだろうか?」

科学者たちが軽視する感覚的体験。しかし、それこそが私たちが世界と出会う最初の、そして最も確実な方法ではないのか——。

その森で、ブレイディは「守勢から攻勢」に転じました。問題は自分の関心の「未熟さ」にあるのではなく、科学が「経験」をどう捉えるかにあるのではないか。そう考え始めたのです。

「経験」という言葉に隠された謎

ブレイディが気づいたのは、「経験」という言葉の奇妙な二重性でした。

この言葉はもともと、ラテン語の「試験」「証明」に由来します。英語の「expert(専門家)」の語源でもあり、長い間「確実な知識の根拠」を意味していました。

ところが現代では、「私は自分の経験からしか語れませんが…」といった表現に見られるように、経験は「個人的で相対的な見解」を意味するようになっています。

これは単なる言葉の変化ではありません。科学の世界で起きている根本的な転換を反映しているのです。

17世紀、ガリレオは世界を「第一性質」(形、大きさ、運動、質量など数学的に記述できるもの)と「第二性質」(色、音、匂い、味など感覚的なもの)に分けました。そして第二性質を「人間の意識の中にのみ存在するもの」として、科学の対象から除外したのです。

この区別によって数理物理学は飛躍的に発展しました。しかし同時に、私たちの生きた経験は「主観的で信頼できないもの」に格下げされてしまったのです。

池のほとりの実験

ブレイディは、この問題を単なる哲学的議論で終わらせませんでした。彼は実際に「見る」という行為を詳細に観察し始めたのです。

例えば、池や湖のほとりに立ってみてください。適切な深さの場所では、水底の砂や石と、水面に映る対岸の木々の両方を見ることができます。しかし不思議なことに、同時には見えません。

水底に注意を向けると、反射は消えてしまいます。木々の反射を見ようとすると、今度は水底が見えなくなります。目の焦点の問題のように思えますが、そう単純ではありません。

重要なのは、どちらの像も「あなたが注意を向けるまでは存在しない」ということです。像を得るためには、まずあなたがそれを選択し、焦点を当てる必要があります。

波を「見る」ということ

さらに複雑な例を考えてみましょう。ブレイディが観察した浅い湖では、透明な水を通して砂底が見え、水面には遠くの木々が反射し、その表面を小さな波が走っていました。

三つの異なる「現実」が同じ場所に重なっているのです。そして、それぞれを見るためには、異なる見方が必要でした。

波を見るとき、ブレイディは興味深いことに気づきました。単に目の焦点を変えるだけでは不十分だったのです。木々の像の「規則的な歪み」を「水面という平面の動き」として理解する必要がありました。

その瞬間、歪みは波に変わりました。「3インチの波が立ち上がり、岸に向かって走った」のです。

「私は目によると同じくらい、理解によって見ている」——ブレイディはそう結論しました。

現代への示唆

ブレイディの発見は、現代の私たちにとって何を意味するのでしょうか。

AIが人間より「客観的」だと言われる時代です。感情や偏見に左右されない、純粋にデータに基づく判断。しかし、ブレイディの研究は、そもそも「客観的観察」というものが成り立たないことを示しています。

観察は常に観察者の能動的な活動を含みます。私たちは世界を受動的に「写真撮影」しているのではなく、注意を向け、焦点を選択し、理解を働かせることで、初めて世界を「見る」ことができるのです。

これは主観主義を意味するのではありません。むしろ、真の客観性とは、この能動的プロセスを認識し、それを洗練させることで達成されるのかもしれません。

知覚の技能

実際、高度な観察技能を要求される分野——野鳥観察、医学診断、品質管理など——では、長年の訓練が不可欠です。「見る」ことは学習可能な技能なのです。

ブレイディは指摘します。「信頼性は測定から導き出されるのではなく、それを取る人の技能と知性から生まれる」

つまり、観察者の貢献を最小化するのではなく、むしろ最大化することで、より正確で豊かな認識が可能になるのです。

エピローグ:経験の復権

あの日、ユーカリの森で感じた疑問から始まったブレイディの探究は、知覚に関する全く新しい理解をもたらしました。

私たちは世界と分離した傍観者ではありません。私たちは世界との「出会い」を通じて、世界と自分自身の両方を発見していくのです。

感覚的経験や直接的知覚は、科学から排除されるべき「主観的なもの」ではありません。それらは、私たちが現実と出会う最も基本的で確実な方法なのです。

現代社会で失われつつある「経験の権威」。しかし、真に知的で創造的な思考は、この生きた経験から始まるのではないでしょうか。

錬金術師と呼ばれた学生の直感は、正しかったのです。

より詳しく知りたい方へ

この記事は、『BEING ON EARTH』の第1章:直接経験(ロナルド・ブレイディ)に基づいています.
作成にあたってはAI(claude4)を活用しています.
この記事で紹介したブレイディの説をより詳細に知りたい方は、次の要約記事もご覧ください.

詳細記事では以下の内容について深く解説しています:

  • ガリレオの第一性質・第二性質理論の詳細な批判
  • ヨハネス・ミュラーの「特殊神経エネルギーの原理」
  • 機械的知覚モデルの「遂行的矛盾」問題
  • 注意と意図の働きに関する現象学的分析
  • 主体-客体関係の新しい理解
  • 哲学的議論の全体像と論理構造