学びの原像 〜ヨヘン・ボッケミュール氏の思い出

IMG:http://i-spiral.net/wp-content/uploads/2024/09/Jochen-Bockemuhl.png

もうずいぶん前の話になるけれど、らせん教室ではヨヘン・ボッケミュール(Jochen Bockemühl)氏を招いて特別講座とワークショップをしていただいたことがあります.

ボッケミュール氏は植物学者で、ゲーテアヌムの自然科学セクションの長をつとめられていた方です.日本でも氏の『植物の形成運動』という著作が早くから翻訳・刊行されていて(耕文社刊)、ゲーテ的な自然学を現代において体現する人物として、知る人ぞ知る存在でした.
ですがその独自の研究方法の全貌はまだまだよく知られていなかったのです.

果たしてこの時の講義とワークショップの内容は私たちに深い印象を残し、後のちらせん教室の学びに一本の太い柱をもたらしてくれました.

bildhaft(ビルトハフト)という言葉に象徴される氏の方法についてはあらためて別の機会に振り返ろうと思いますが、ここではその時に受けた氏の印象について書きとめさせてください.というのも、その方法を書き留めるより先に、氏から滲み出ていた穏やなお人柄についてふれておくことに、一定以上の意味があるように思えるからです.

そもそも「学び」に私たちは何を期待するのでしょう.このようなサイトを訪れてくださる方々なら、単なる知識を欲しているわけではないと思います.その目的はきっとさまざまで、子育ての指針にしたいという方も多いでしょうし、もっと抽象的に、今とは別の自然との関係を探していたり、あるいは超自然的な認識力を欲している、などというケースもあるのかも知れません.

ですが、いずれにせよその学びの先、あるいは途上には、ある種の人格的成熟への期待が存在しているのではないでしょうか.学びというものに、知的なもの以上に精神的な意義を求めるのは、割と自然なことのように思います.

私たちの前に立ったボッケミュール氏の穏やかな物腰、口調はまさにそんな学びの成果として、私たちの目に映りました.

こんな風に書くと個人崇拝か、と揶揄されそうです.
もちろんそういうことを言いたいわけではありません.誰もがボッケミュール氏と同じ人柄を目指そう、というわけではないし、そんなことは無理な話でしょう.一人一人が異なる人格をもち、異なる状況で人生を生きているのですから、それをおしなべてひとつの型に押し嵌めるなど本末転倒です.

とはいえ氏の表情や身振り、口調から滲む「何か」はひとつのまとまりをもって強い印象を私たちにもたらしました.誤解を恐れずにいえばそれは美しさに似たものだったかも知れません.もう少し散文的に、完成度、と言い換えたほうが理性的でしょうか.

その洗練・成熟はきっと、ボッケミュール氏がその人生を賭してとりくんできた植物観察と、そのために生み出した方法論、その認識の深さに照応しているという感じが、今でもしています.そして何よりも私たちはボッケミュール氏が自然を認識する際の愛情深い姿勢を、そこに看取ったのです.

そんなわけで、私たちは学びというものにおいてまず重きを置くべきことを、氏の姿に重ね、その記憶はいまも鮮やかです.

その後、ボッケミュール氏のほかにも、幾人かの講師をドイツから招きました.その誰もが、分野は違えど等しく独自の学説と探求のスタイルをもっており、それに応じた人柄を見せてくれました.ボッケミュール氏は特筆すべき存在でしたが、誰もが別の「おさまり」を見せてくれ、個性的で温かく、誠実な探求の姿勢をもっていたと思います.

私たちは学者になろうというわけではありません.でも、だからこそというべきか、学びとはまずもってこういうことだ、という原像を、氏から受け取れたように思います.
その受けとったものが今どのくらい実っているかについては、また別の話なのですが(笑)

ヘッダーに掲載している画像はボッケミュール氏本人の、ワークショップ時の写真です.私がお伝えしたかったことが伝わるでしょうか.十分ではないとすれば撮影者である私の責です.

このシーンは同時に、氏が参加者たちにとても重要な示唆を与えてくれた一瞬でもあります.いまは集中力が途切れかけているのでで、詳しくはまた別の機会に書かせてください.

ここまでお読みくださり、どうもありがとうございました.