ゲーテのイタリア旅行とメタモルフォーゼ

*この記事はAIと対話しながら作成したものです.ハルシネーションがあり得ますのでご留意ください.

ゲーテのイタリア旅行とメタモルフォーゼ(対話音声による本記事の内容紹介)

「秘密の脱出」-1786年9月3日、カールスバートの早朝

ゲーテは『イタリア紀行』の冒頭で次のように記しています:

Früh drei Uhr stahl ich mich aus Karlsbad, weil man mich sonst nicht fortgelassen hätte¹²(「朝の三時に、こっそりとカールスバートを発った。旅行鞄と毛皮つき背嚢を一つにまとめて荷づくしただけで、たった一人郵便馬車に飛び乗り、七時半ツヴァータに着いた。美しい静かな霧の朝だった」)。

1786年9月3日の早朝、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(当時37歳)は、まるで犯罪者のようにこっそりとボヘミアの温泉地カールスバート(現在のチェコ・カルロヴィ・ヴァリ)を抜け出しました。研究者によると、「1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテは、アウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった」¹³とされています。

なぜ、ヨーロッパ屈指の文豪がこれほどまでに秘密裏に旅立つ必要があったのでしょうか。

旅立ちの背景:行き詰まりの10年間

研究者は次のように指摘しています:「一七七五年ゲーテがカール・アウグスト公に招かれてヴァイマルに移住してからイタリア旅行までの十年間の生活は、政治家、官吏として多忙をきわめた。彼は顧問官となり、貴族に列せられ、大臣にまでなった。しかし彼の詩的活動の面では、最も沈滞した時期であり、そのうえシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との長期にわたる愛の悩みが加わり、ゲーテはあらゆる方面で行きづまりを感じていた」¹⁸。

一方、イタリアはゲーテにとって早くから憧憬の国であり、すでに三度までも足を踏み入れかけながら、とって返した国であり、ミニョンの歌を通じて、あらゆるあこがれと、感性的な美と自由とのシンボルとなっていた国でした。父親がイタリア贔屓だったことも、この憧れを育んだ一因でした²²。

北方から南方へ:具体的な旅程と発見の軌跡

第一段階:ドイツ国内の移動(9月3日-8日)

シュヴァーネンドルフ、レーゲンシュタウフ、ティルシェンロイト、ドナウ川。ランチはエーガーで、バイエルンのヴァルトザッセン修道院、夜はレーゲンスブルク。「9月5日昼12時半にレーゲンスブルクを出て翌朝6時にミュンヒェンに到着。12時間見物した後、9月7日5時にミュンヒェンを出発。一路インスブルックへ。チロルの山々には雲が巨大な塊をなしてかかっていた」¹⁷と記録しています。

この時点で、ゲーテは既に地質学的な観察を始めています。「周囲の絶壁はすべて石灰で、まだ化石を含まない最古のものだ。この石灰の連山は、石英と粘土の多い原始山脈とか重なりあっている」¹⁵と記録しています。

第二段階:アルプス越えとイタリア入国(9月8日-11日)

1786年9月3日、On September 3, 1786, Goethe slipped away from the Bohemian spa of Carlsbad and traveled as rapidly as he could by coach to the Brenner Pass and down through the South Tirol to Verona, Vicenza, and Venice in Italy¹(「1786年9月3日、ゲーテはボヘミアの温泉地カールスバートからこっそりと抜け出し、馬車でできるだけ急いでブレンナー峠へ向かい、南チロルを通ってイタリアのヴェローナ、ヴィチェンツァ、ヴェネツィアへと旅した」)。

ブレンナー峠を越えてイタリアに入ったゲーテは、気候の変化による植物の変化を敏感に察知し始めます。すでにブレンナー峠を越える途中で、気候が成長形態をどのように変化させるかについて重要な洞察を得ることができたのです。

第三段階:北イタリアでの美的覚醒(9月-10月)

ヴェローナ:In Verona, where he enthusiastically commends the harmony and fine proportions of the city amphitheater, he asserts this is the first true piece of Classical art he has witnessed²(「ヴェローナでは、都市の円形闘技場の調和と美しい比例を熱心に称賛し、これが彼が目撃した最初の真の古典芸術作品だと断言した」)。

ヴェネツィア:Venice, too, holds treasures for his artistic education, and he soon becomes fascinated by the Italian style of living. He acquires Andrea Palladio’s printed works and studies them intensively³(「ヴェネツィアも彼の芸術教育にとって宝物を持っており、彼はすぐにイタリア的な生活様式に魅了された。アンドレア・パッラーディオの印刷された作品を入手し、それらを集中的に研究した」)。

パッラーディオとの出会い:ヴィチェンツァでは建築家アンドレア・パッラーディオの作品に感動し、その建築理論書を購入して熱心に研究しました。この体験は、ゲーテの古典的美意識の形成に決定的な影響を与えました。

第四段階:ローマでの芸術的修業(10月1786年-2月1787年)

On October 29 he arrived at last, only to find its ruinous state a painful disappointment⁴(「10月29日にようやく到着したが、その荒廃した状態は痛ましい失望だった」)。しかし、初期の失望を乗り越えて、ゲーテはローマで重要な人脈を築きました。

It was here that he met several respected German artists, and made friends with Johann Heinrich Wilhelm Tischbein and notable Neoclassical painter, Angelica Kauffman. He visited the famous art collections of Rome with her and her husband Antonio Zucchi. Other artists he frequently met were the painter Johann Friedrich Reiffenstein and the writer Karl Philipp Moritz. Goethe lived with Tischbein in his flat in Via del Corso 18, Rome, today Casa di Goethe, a museum on the Italian Journey⁵(「ここで彼は尊敬される何人かのドイツ人芸術家と出会い、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティッシュバインや著名な新古典主義画家アンジェリカ・カウフマンと親交を結んだ。彼女とその夫アントニオ・ズッキとともにローマの有名な美術コレクションを訪れた。他にも画家ヨハン・フリードリヒ・ライフェンシュタインや作家カール・フィリップ・モーリッツと頻繁に会っていた。ゲーテはティッシュバインとローマのコルソ通り18番地のアパートで同居し、現在はこの場所が『ゲーテの家』として博物館になっている」)。

ここで、後に有名となるティッシュバイン画「カンパーニャ・ロマーナにおけるゲーテ」が描かれました。

第五段階:南イタリアとシチリアでの自然哲学的発見(2月-6月1787年)

ナポリでの地質学的探究:As a geologist, Goethe climbed Vesuvius; as a connoisseur of ancient art, he visited Pompeii and Herculaneum⁶(「地質学者として、ゲーテはヴェスヴィオ火山に登り、古代芸術の愛好家として、ポンペイとヘルクラネウムを訪れた」)。

シチリアでの植物学的革命:He pressed on to territory his father had not touched, to Sicily, and here at last he felt "that now my journey is taking on a shape." He had reached a landscape impregnated with a Greek past, in which Homer’s Odyssey seemed not fanciful but realistic⁷(「父親も足を踏み入れたことのない領域、シチリアへと向かい、ここでついに『今、私の旅は形を成しつつある』と感じた。彼はギリシアの過去に染み込んだ風景に到達し、そこではホメロスの『オデュッセイア』が空想的ではなく現実的に思えた」)。

パレルモでの植物学的革命:1787年4月17日

ゲーテのイタリア旅行における最も重要な瞬間は、シチリアのパレルモで訪れました。1787年4月17日、ゲーテは次のように記しています:

「パレルモ、1787年4月17日火曜日。いろいろな種類の精霊に追われ、誘惑されるのは、本当に不幸である!今朝私は詩的な夢を続ける確固たる静かな意図を持って公園に行ったが、私が知る前に、この数日間すでに私に忍び寄っていた別の幽霊が私を捕らえた。私が桶や鉢の中だけで、そして一年の大部分はガラス窓の後ろだけで見ることに慣れていた多くの植物が、ここでは野外で幸せで新鮮に立っており、その目的を完全に果たすことによって、私たちにとってより明確になる。そんなに多くの新しい、そして新たになった形成に直面して、私は古いコオロギを思い出した。この群衆の中で原始植物を発見できないだろうか。」¹⁶

この日の体験について、ゲーテは後に次のように記しています:

While walking in the Public Gardens of Palermo, it came to me in a flash that in the organ of the plant which we are accustomed to call the leaf lies the true Proteus who can hide or reveal himself in vegetal forms⁸(「パレルモの公園を歩いているとき、私たちが慣習的に葉と呼んでいる植物の器官の中に、植物の形で自分を隠したり現したりできる真のプロテウスが潜んでいることが、閃光のように私に浮かんだ」)。

*プロテウスについては次の記事もご覧ください。 → プロテウス:ゲーテのメタモルフォーゼの源泉

第六段階:ローマでの成熟(6月1787年-4月1788年)

But Charles Augustus, who had already extended Goethe’s leave, generously allowed him to live in Rome for another year. What Goethe came to value most about this time, though, was not the opportunity of seeing ancient and Renaissance works of art and architecture firsthand but rather the opportunity of living as nearly as possible what he thought of as the ancient way of life, experiencing the benign climate and fertile setting in which human beings and nature were in harmony⁹(「しかしアウグスト公は、すでにゲーテの休暇を延長していたが、寛大にもさらに一年間ローマに住むことを許可した。しかし、ゲーテがこの時期に最も価値を見出したのは、古代やルネサンスの芸術作品や建築を直接見る機会ではなく、むしろ彼が古代の生活様式と考えるものをできるだけ近い形で生きる機会、つまり人間と自然が調和する温和な気候と肥沃な環境を体験することだった」)。

旅行の成果と意義

文学的成果

この旅行中に、ゲーテは『イフィゲーニエ・アウフ・タウリス』を韻文に改作し、『エグモント』を完成させました。また、帰国後に書かれた『ローマ哀歌』の素材も、この旅行で得られました。

科学的成果

Goethe’s essay is the result of a thorough, laborious study of a topic that had intrigued him well before his famous Italian journey in 1786-1788. By that time, his knowledge of plants and contemporary botany was anything, but negligible. It was here, that he realized the effect of the climate on certain plant species¹⁰(「ゲーテの論文は、彼の有名なイタリア旅行(1786-1788年)のずっと前から彼を興味深くさせていたテーマの徹底的で骨の折れる研究の結果である。その時までに、植物と同時代の植物学に関する彼の知識は決して軽視できないものだった。ここで、彼は気候が特定の植物種に与える影響を実感したのである」)。

1790年に出版された『植物変態論』の理論的基盤は、このイタリア旅行、特にシチリアでの体験から生まれました。

地質学・鉱物学的収集

ゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた¹⁴。

人生の転換点としての旅行

研究者は次のように評価しています:「ゲーテの生涯において、イタリア旅行ほど決定的な意味をもった事件はない。この旅行はゲーテを新しい人間に変えた。早世を考えていたころの、いやそれどころか、それまでの生活を続けていくよりはむしろ死んだほうがましだと考えていたころのあの憂鬱は、輝かしい明朗さと人生の喜びの前にあとかたもなく消えていた」¹⁹。

さらに、「ヴェネチアとナポリの民衆劇場でゲーテの笑い声を聞き、ガルダ湖畔でイチジクを、あるいはヴィチェンツァの市場でブドウを平らげるゲーテを眺めるのは、一服の清涼剤である。ゲーテの五感すべてがふたたび生気を取り戻した」²⁰と記録されています。

旅行記の執筆と影響

ゲーテは約30年後の1816年から1829年にかけて、当時の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を執筆しました。研究者によると、「『イタリア紀行』は当時の日記、書簡等を資料とし、自伝『詩と真実』のつづきとして後になって編纂されたものである」²¹とされています。

この作品は、19世紀のヨーロッパ知識人に絶大な影響を与え、We are all pilgrims who seek Italy¹¹(「私たちは皆、イタリアを求める巡礼者である」)とゲーテが帰国2年後に詩に書いたように、多くの人々にとってイタリア旅行の指針となりました。

おわりに:「第二の誕生」

ゲーテのイタリア旅行は、単なる観光や文化的体験を超えた、人生の根本的な転換点でした。37歳の行き詰まった官僚・文学者が、1年10ヶ月の旅を通じて、古典主義の巨匠として、そして近代自然科学の先駆者として「第二の誕生」を遂げたのです。

特に、パレルモの植物園での「真のプロテウス」の発見は、文学と科学を統合する新たな世界観の出発点となりました。この体験が古典的智慧と近代科学の革新的統合へと結実していったのです。

現代の私たちにとっても、ゲーテのこの旅は、人生の行き詰まりから新たな可能性を見出すための、重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。


参考文献

¹ Johann Wolfgang von Goethe – Italian Journey, Poet, Dramatist | Britannica. https://www.britannica.com/biography/Johann-Wolfgang-von-Goethe/Italian-journey-1786-88

² Italian Journey – Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_Journey

³ 同上

⁴ Johann Wolfgang von Goethe – Italian Journey, Poet, Dramatist | Britannica.

⁵ Italian Journey – Wikipedia.

⁶ Johann Wolfgang von Goethe – Italian Journey, Poet, Dramatist | Britannica.

⁷ 同上

⁸ THE METAMORPHOSIS OF PLANTS. https://hps.elte.hu/~zemplen/goethemorph.html

⁹ Johann Wolfgang von Goethe – Italian Journey, Poet, Dramatist | Britannica.

¹⁰ THE METAMORPHOSIS OF PLANTS. https://hps.elte.hu/~zemplen/goethemorph.html

¹¹ Italian Journey – Wikipedia.

¹² ゲーテ Goethe-イタリア紀行を読む. https://bymn.xsrv.jp/classic/goethe.html

¹³ イタリア紀行 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B4%80%E8%A1%8C

¹⁴ ゲーテ Goethe-イタリア紀行を読む.

¹⁵ 同上

¹⁶ Archetypal plant – AnthroWiki. https://en.anthro.wiki/Archetypal_plant

¹⁷ ゲーテ Goethe-イタリア紀行を読む.

¹⁸ ゲーテ『イタリア紀行』あらすじと感想~19世紀ヨーロッパ人に絶大な影響を与えた傑作旅行記. https://shakuryukou.com/2022/02/03/dostoyevsky616/

¹⁹ 同上

²⁰ 同上

²¹ 同上

²² ゲーテの父ヨハン・カスパー・ゲーテ(1710-1782)は、祖父が旅館経営と葡萄酒取引で築いた財産を受け継いだ裕福な文化人であった。大学卒業後、フランクフルト市の要職を志したが果たせず、枢密顧問官の称号を購入した後は定職に就かず、文物収集に没頭する生活を送った。教育に対する熱意は並外れており、息子ゲーテには幼児期から家庭教師を雇い、語学、図画、乗馬、音楽、ダンスなど多方面にわたる教育を施した。特にイタリア文化への深い愛着を持ち、画家などの芸術家を支援するパトロン的な活動も行っていた。このような父親の文化的素養とイタリアへの情熱が、ゲーテの知的好奇心と芸術的感性、そして生涯にわたるイタリアへの憧憬の基盤を形成したとされる。