撮影:志賀島


身体に見る迷宮

らせん教室通信05号所収

●はじめに
こうして講義のメモを書いていると困ることがあります.いきなり愚痴のようですが、他の人からも同様の声が聞こえたので、少しは一般的な問題なのでしょう.というのは、文章を書き連ねていくと井手さんの言ったことなのか、自分が考えたことなのか、明瞭な区別がつきにくくなってしまうのです.もちろん技術的な問題も大きい.もともと読んでいただくのが申しわけないくらいの文章力ですが、伝聞と自分の考えをはっきりさせようとすると「〜と言ってました」とか「〜ということです」みたいなフレーズが多くなってしまい、書いていてすわりが悪い.かと言って区別を曖昧にしては問題です.
読んでいる皆さんもどこまでが井手さんの考えで、どこからが記録者の考えなのかがわかったほうがいいはずですね.どうしたらいいのかな〜、こういう悩みが、メンバーの中から時々聞こえてくるわけです.今回も解決案のないまま、なりゆきで書いているのですが…
考えてみると、これに類することは日常生活の中でもけっこうあります.ニュース番組でキャスターが話していたことをそのまま話して平気な顔を話していたり、うっかりするとかつて聞いた話を、それを話してくれた本人に向かって話していたり(こんなドジは自分だけかも知れませんが).半ばは自分でも意識しないままに受け売りをしてしまう.それでもそういう言葉は何となく浮いている感じがして、案外見透かされてしまうものです.その言葉が本当に自分のものになっていないからでしょう.

●何のために学ぶか
ここからは井手さんのお話です.
人が何かを学ぶとき、学ぶ物に対するそれなりの興味が必要です。子どもたちが学校で何のために学ぶのか?現在の状況では、学ぶ目的には大きく分けてふたつありそう.ひとつは成績への興味.もうひとつは学ぶ対象への興味.井手さんの先生であるレーバーさんが東京で行なった講演会のときに、子どもたちから質問をうけました。「シュタイナー学校ではテストがないそうですが、それで子どもたちが勉強するのですか?」「します」というレーバーさんの答えを、子どもたちは信じなかった.それは質問した子どもたちの学ぶ目的が成績にあるから.学ぶ対象に興味があれば自然に学ぶし、身にもつく.興味をもつには自分とその対象の間に関係があると感じられなければならない.関係が見いだせないままに丸暗記するのはかなり辛い.現在の子どもたちの多くはそういう状況に置かれている.
**講師注:子どもたちが、対象に対する興味から学ぶ、という考えには誰もが賛成できないでしょう。そして、それは夢物語、理想論だ、と言うでしょう。しかし、現実にシュタイナー学校では現にそのような子どもたちが成績に対する興味からではなく、純粋に学ぶと言うことの興味から意欲を持って学んでいます。何でも、自分の考え方、価値観の範疇にない物は、多くの人々が、試そうとしないで、理想論として片付けてしまいがちです。

●以前やったこと─とりいれるということ
ところで「人の考えを消化する」という言い方がされるように、学ぶということと食べることは、ある意味似たプロセスだ.というのは、いずれも外にあるものを内にとりこみ、自分のものにすることだから.
しかし一体、いつの時点で自分のものになるのだろう?食べることを例にとれば、ものを口に入れた時点からなのだろうか?それとも胃の中に入ったとき?私たちはお腹の中の世界を内側だと思っているが、それは外が内に入っただけで、
自分の内側とは言えない.身体は口から肛門にかけて穴が通っている管のようなものだ、と見なせる.だから管の中は自分の内というよりはむしろ外だと言える.この管を食べ物がそのまま素通りしていけば、外をすれ違うのと同じで外側にあるままで消化されていない.
自分と食べ物の間には何の関わりも生まれない.しかし私たちは歯で噛んで、唾液や胃液などの消化液によって食べ物を細かくしながら、それを自分のものとしていく.
知識もまた、見たり聞いたりしただけでは素通りするだけ.自分の歯でかみ砕いて消化し、関わりをもっていかなければならない.この脈絡で言えば、例えば「問いかけ」というのは自分の中から出てくる消化液のようなものなのかも知れない.何かを自分のものとする時のひとつのポイントは、取り入れられる当のものは、もとの性質がわからなくなるような状態にされる、ということ.食べ物であればそれがもともと何だったのかわからなくなるくらい、消化液で溶かされる.知識で言えば、それが誰の考えなのかがわからなくなるような状態になってからでないと、自分の中には入ってこない.

●わけがわからなくなる場所─迷宮
食べられた後、元の性質を失うくらいにされた食物が運ばれる場所は、腸.背骨が鮮やかに透けて見えるグラスフィッシュでもお腹は透けていないように、腸は外からの光から閉ざされていて、その内部を外からうかがうことはできない.だからそれを知るためには中に入るしかないのだが、腸は左右が非対象でぐねぐねとうねる、わかりにくい場所だ.他の臓器のようにはっきりとした形を現さない.内部に入れば前後不覚、らせんの迷宮といった趣だろう.そのわけのわからない迷宮を、わけがわからなくなった食べ物が流れる.そして、まさにそこで食べ物が吸収される.外のものが内に取り込まれていく.

●渦巻きの体験
ところで、ヘビは体のほとんどが消化管なので、腸が動いていると思ってもいいかも知れない.ヘビがとぐろを巻いて渦をつくるのは示唆的だ.(消化プロセスはらせんをつくる?)というわけで、実際に渦を内側から体験してみようということになりました.一同列になりとぐろをまき、一度は中心に向かってぞろぞろと歩き、中心に至った後は反転して外側に向かって渦を動く.実際にやってみると、渦を外側から見ていたのとは全く異なる世界があります.これが迷宮のプロセス.皆さんも試してみてはいかがでしょう?(記録者注・傍から見るとちょっとアヤシいです.)
**講師注:外から見るといつも怪しいです。

●ひと言
あるものと別のものとが出会い、ひとつになる場所がらせんである、というイメージは魅力的でした.死と再生の象徴でもあるらせんにぴったりです.ただ消化の場合と知識の場合では少し違うかな、と思うこともあります.新しい知識を入れようと思った場合には、それを咀嚼するだけでなく、自分の考えの方も解体しなければならない.
自分の中でできあがっている考え方やものの観方を一度崩してみないと入ってこないことが、けっこう沢山あります.問いかけとはまさに、既存の自分への問いかけでもあるのでしょう.
食べ物の場合はそこまで自己解体しないのが普通だと思います.でも最近のアヤシい食べ物ばかり食べていると、身体がおかしくなってしまうかも知れませんね.

『らせん教室通信2002年版』から



身体に見る迷宮

動物の形態と気質

秋分の日とミヒャエル祭


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シュタイナー学習会:らせん教室通信